あっ この感じは覚えていたい

いま読むべき唯一のブログ

なんなら多い方がよい気すら

3月2日(土)。晴れ。

ちょっとデカいことを言うと決まって次の日に気恥ずかしくなるんだけど、まあ、ウソではないので…という気持ち。

osicoman.hatenablog.com

春っぽい陽気にあてられて、いや、より正確にいうと、春っぽくなったら絶対にその陽気に自分からあてられにいくぞ、という気持ちがずっとあったので、浮ついた気持ちがなるべく消えないように気を付けながら、髪を切り、染め、本やらコーヒー豆やらを買い、電車に揺られ、ビールを流し込み、焼かれた肉を食べ、古い知り合いに偶然会うなどした。た〜のし〜!

以上、本日のできごとのダイジェストでした。これから先に書かれているのはそういうのとは全然ちがう、けれどおそらく地続きなこと。

昔から、漠然と「いつか文章でお金をもらえたらいいな〜」と考えていたんだけど、この2ヶ月、ずーっと日記をつけるようにしていたら、なんだかそんなのはどうでもよくなってきてしまった。かしこい人は「漠然と考えるだけじゃなくてそのために動け」とか言うのだろうけど、そういうことじゃねンだわ。

ブログを更新するのはとても楽しいんだけど、ここに書くことはとくに誰に求められているわけではなくて(読んでくれている人がいるのはわかっていて、それは本当にありがたいことです)、だからこそ続けられているような気がする。人に求められるような、というか、お金になるような、現時点ですでに市場価値を認められているタイプの文章は、たぶんあんまりうまく書けない。

ふとした瞬間に急に思いついて、その割に妙な確信があるんだけど、すでに名前のついている何かを目指すことが、自分には向いていない気がする。昔から、何をしても自分より先に始めて圧倒的にうまくやれている人がいることを考えてしまったり、前例のない新しさに惹かれたりしがちだったのは、そういうことだったんだと思う。

買ったばかりの東浩紀のエッセイ集『ゆるく考える』のあとがきにこんな一節があった。

ぼくは二一歳で批評家としてデビューし、二七歳で最初の著作を出版した。そのため早熟な書き手と見なされることが多いが、自分では、あらゆる機会に遠回りばかり選んでいる、とても効率の悪い人生なのではないかと感じている。実際、本書でもいくつか例が挙げられているように、ぼくの人生には、「そのあと」に繋がらなかった水子のようなできごとが無数に取り憑いている。

水子って本来はとても悲しい意味だけど、ここではそういう用いられ方はしてなくて、なんなら多い方がよい気すらしてる。

冷静に読み返してみると、新しさを求めたいことと引用したくだりに繋がりがあるようには見えないんだけど、関連があるように感じたので記録しておく。無理矢理にでも結びつけようとするなら、「そのあと」に続かなかった水子たちを想って動くことでいつか「そのあと」の続きが見えてくるかも知れない、とか、水子がたくさん集まったらキングスライムみたいに新しい何かが生まれるのかも知れない、とか、言えなくもなさそうだけど、芯を食ってない感はかなりある。まあ、芯を食ってないことを書いてもいいんだけど。

昨日に続いてデカいことを主張するターンが続いたけど、それもまたよし。

ゆるく考える

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