あっ この感じは覚えていたい

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ツイッターについて

ツイッターのどういうところが好きなのかわかったので共有します。

  1. 好きなだけ自分語りをしていい
  2. それをだれかが見てくれる可能性がある

以上です。あまり動員のためのツイートとかに興味はなくて、延々と好きなものについて語っているような人が好き。昔のツイッターはそういう場所だったように思いますが、まあそんなことを言ってもしゃーなし。

以下、蛇足かも知れない捕捉

人と話すとき、聞き役になることが多い。だいたいいつも自分から望んでそういう役回りを選んでいる。人が何を考えているか知ることは楽しい。役に立ったりどうでもよかったり、解散する頃には話した内容を忘れてたり、数年後に急に思い出したり、いろいろあるけど、それぞれにちがったよさがある。話してくれること自体もうれしいし。

一方で、最近気付いたのだけれど、私は誰かに自分のことを知ってもらいたいという欲求がかなりある。それはあまりよいことではなくて、少しでも心を開いてくれたかな、と思った途端、過剰に自分の内面をさらけ出してしまうフシがある。そういうフシがあるから聞き役になりがちなのか、聞き役になってるうちにそうなったのかもう分からないんだけど、それらは(厄介なことに)うまい具合に補完しあっていて、どちらか片方のみをやめることはできなさそう。どちらも引き受けるしかない気がしている。それで普段はできるだけスマートに、自分のことばかり話したりしないように気を付けているんだけど、たま〜にやらかしてしまう。で、気まずくなったりする。

そんな不幸な目に遭わないためのツイッターなんですね。ツイッターなら、いきなり『BOLERO』の話をし出しても誰にも怒られない。

ベローチェでいきなりこんな話をされても知らんがなってなるに決まってる。私としても、たぶん直で話すと考えに整理が追いつかなくて、うまく伝えられず、相手も理解できず、ただ不毛な時間だけが過ぎていく気がする。人生は有限なので、なるべく不毛な時間は過ごしたくない。伝わるように一度文章として整理することが目的なら、ツイッターでなくブログでもメモ帳でもいいんだけど、2 番目の「それをだれかが見てくれる可能性がある」っていうのがまた重要で、それはツイッターにしかできない。

私は面倒な人間なので、自分のことを知ってもらいたくて、許されるなら延々と話をしていたいんだけど、そのとき、ちゃんと恥ずかしい。知ってほしいんだけどしっかり目を見られて話を聞かれるとツラい、みたいなところがある。ツイッターはそのへんのバランスがよい。誰かには見られてるし、誰にでも見られ得るんだけど、誰にも見られてないような感じもあって。ブログだって原理的には同じじゃん、というのはそうで、ここでツイッターじゃないとダメというのは感覚でしかないんだけど。

ツイッターが自分にとってどんな存在なのか、アカウント作成から 10 年(若気の至りで一度削除したことあり)経って、ようやくきちんと言葉にできた。やったね!