あっ この感じは覚えていたい

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続・積み上げてきた重みってやつについて、あるいは最近の私はなぜ妙にテンションが高いのか

osicoman.hatenablog.com

前回のエントリーとは全然関係ないつもりでキーボードを叩いていたのに、最終的に続きみたいになって感心してる。

興奮気味にツイートしてしまった。それでまた少しフォロワーのみなさんとの距離が開いたと思うと切ないが、自分の選択に起因するのだから諦めもつく。

とにかく、私はそのとき、たしかに自分がいま自分であることに関するありえんくらい重要なことに気付いて、それから、ずっと軽く躁状態だという自覚がある。どこかに出かけたり、人と話したり、何かについて深く考えたり、理由もわからず涙を流したりしたい。中村一義でいうところの「いろんなねぇ、色、音で、出会う感動も、まだ、あるとして…、そう!」ということであり、こういうタイミングで未だにこれを引用してくるのかよ、と自分の引き出しの古さに辟易としていて、そういうのをアップデートしていきたい、ってわけ。


中村一義 - 1,2,3

すごいビデオだなと思ったが、それはこのエントリーの本旨ではない。以下、なぜそう思うに至ったのか、自分のためのメモのふりをしたアピール、所信表明、そういう類のやつが続く。

俯瞰したくない

たぶん子どもの頃からそうなんだけど、自分の行動を俯瞰する感覚がまあまあいつもある。打算。変に冷めている。冷めた子だ、という評価を実際に親から賜ったこともある。それは正しかった。泣くしかないようなシチュエーションだからとりあえず泣いてるんだけど、それ雰囲気で泣いてるだけやん、そもそも自分で「とりあえず」言うてもうてるやん、的なことをしてしまう。程度の差はあれ、という観点では誰しも多少はあるんだろうけど、振り返ると、自分のそれはちょっと度を超えてる。

自分が何をしても、先回りして水を差される。例えば、誰にどう見られてもいいからやりたいことをやれ、と思っている自分がいるとして、それに対して「誰にどう見られて気にせずやりたいことをやっている自分」を演じているんでしょ、とディスられる。気にしないようにしても、毎ターンちょっとずつ削られる。毒ではなくやどりぎのタネっぽくて、少しずつその声は大きくなっていく。

ビジネス書なんかには俯瞰できることが役に立つ、むしろ積極的に俯瞰してゆけ、くらいのことが書かれてたりするけど、自分の経験としては、仕事においてはテンパってやらかしたことの方が多くて、これのおかげで助かったことってあんまりない。その上でプライベートにおいても特にいいことがないのであれば、これはもう完全にいらないスキルなのでは、という疑惑。

「悪い所でも」「あるぜ」
今や100%悪いとしか思えなくなった。神海英雄『SOUL CATCHER(S)』6巻、p.190より

っていうか、いつもツッコミを入れてくるお前は誰なんだ。他にやることないのかよ。

You were here

一方で、そうやって俯瞰してしまう自分を、心のどこかでずっと快く思っていなかったのだと思う。感情に任せてやってはいけないことをやらかしてしまうことが昔から度々あった。散々俯瞰がどうとか言ってたくせになんなんだよそれは、とは自分が地球でいちばん感じてる。これ、全然そうしてしまう理由がわからず、いつの間にかフタをして、なかったことにして生きていた。その試みは概ねうまくいき、フタをしたこと自体を忘れて過ごせていたんだけれど、不意に思い出してしまった、まだ少し暑さの残る秋の夜。思い出してしまったものは仕方ない。せっかくだから考えてみた。ひらめきはいつも唐突に、こっちの都合はおかまいなしに降ってくる。

それらの感情の爆発は、前述した自分の内にある冷めた性質に抗うための行動だったのかなあ、と急に気付いた。

その瞬間のふしぎな感覚を、死ぬまでずっと忘れないと思う。ほんとうに肩が軽くなって、足は震えて、自分の身体から何かがいなくなったような気がした。「祓われる」ってこういうことなのかね。もちろん、わかんないけど。

それ以来、妙にポジティブである。

ここからまとりのない話

と、ここまでは自分の中で筋道を立てて話せるくらいに腑に落ちているのだけれど、ここから先はふわっとした話になる。アルコールも入っている。

妙にポジティブになったとき、なぜか「数年前のことを振り返るべき」と思った。2011年の、シェアハウスでの生活から解散まで、その後の都内でのひとり暮らし期間、実家に戻ってすぐの頃にやっていたこと。

実家に戻って2年くらいで、ひょんなことから小・中学校時代の同級生と再び交流を持つようになった。それはとても新鮮なことで、お互い歳をとったからこそ話せるもたくさんある。ありがたいし、めっちゃ楽しい。まったく関わりのない時間が長かったから、余計に話は盛り上がるし、尽きない。だから僕は、そこでは自分のインターネットでの活動については一切触れないことにした(ひとりだけ、僕のツイッターアカウントを知っている人はいるんだけど)。

賢い選択だった。インターネットに関するいろいろについて話すにはコンテクストの共有が必要で、たぶん彼らとそれをするのはなかなか難しい。できないとは言い切れないけど、飲み会でそんなことをしようとしたら、すぐタイムオーバーになる。それはどんな人生を選択したかというだけの話で、全然別の、彼らとじゃないと話せないこともたくさんあるから、悪いことではない。なんだけれど、僕がいま僕であることとインターネットは(それってどうなのかなあとか思っちゃうところもあるけれど)どうしようもなく不可分で、そこを隠したままでいるのはどこかストレスだったのかな、と思う。

そういえば、いま思い出したんだけど、前述の、@osicoman を知っている友だちに、ずいぶん前に一度、相談したことがあった。インターネットでの活動のことを言わないでいることにちょっと罪悪感がある、と。そのときの返事は「考えすぎっしょ!関係ないっしょ!」的な内容だったと思う。それに救われもしたんだけどね。むずかしいね。

話を戻すと、たぶんストレスへの対処として、インターネットを通じて楽しくやっていた頃のことをあんまり振り返らないようになっていった。それは「今」楽しくやっていくためには必要なんだろうけど、振り返らないことににした数年間に自分が積み上げてきたものを経て今の自分がいるわけで、それらを全面的に無視するのは不健康だったんだ。

これにて終了

というようなことを、最近はずっと考えていた。全然正しくないかも知れないし、きっちり筋が通ってるわけでもないし、明日にはこんなの全然ちがうわって削除したくなるかも知れないけど、記録として残しておきたい。気分!

うれしいおまけ

自分の好きなもののうちのいくつかについて気付いたことがある。

例えば、『シャーマンキング』というマンガがある。この作品には「大事なことは自分の心で決める」というテーゼがあって、それを代弁してくれる麻倉葉というキャラが特に好きなのだけれど、それはなんでも俯瞰してしまう自分とは真逆の存在に見えたからなのかなあ、とか。GRAPEVINE の『風待ち』という曲の歌詞、「まわりが思うほどじつはそんな器用じゃない」「あれ?いつの間にこんなに疲れたのかなあ」って完全に地元の友だちと遊んだあとにちょっと感じるやつじゃん、とか。


GRAPEVINE - 風待ち

こういう、後から振り返ったときにバシっとハマる答えが見つかるのはうれしい。その瞬間に明確な答えを持たずとも気に入ることができた自分の感性を誇らしく思えるし、なによりもそういう作品を生み出してくれた人たちに素直に感謝できる。ありがてえ、ありがてえ…!